- 堅調
- ヤマシー戦争はサウスカロライナ民兵隊の初めての大きな試験の場となった。クレイブン知事は自ら240名の民兵隊を率いてヤマシー族に対抗した。ヤマシー族は選択の余地無く全部隊を統合してクレイブンの民兵隊に向かうことになった。サルケハッチー川沿いサルケハッチー集落近くの開けた場所で会戦が行われた。これはクレイブンや民兵士官がまさに望んでいた形での戦闘になり、インディアンの戦い方には適していなかった。 数百名のヤマシー族戦士が240名かそこらの民兵に攻撃をかけ、側面を衝こうとしたが失敗した。先頭にいた戦士が何人か殺された後に、ヤマシー族は戦いを諦め近くの沼地に散った。両軍の損失はともに24名程度ではあったが、実際の結果はサウスカロライナ軍の決定的勝利となった。他にも小さな民兵隊がヤマシー族に圧力をかけ、一連の勝利を勝ち取った。 インディアンとの戦争で経験を積んだアレクサンダー・マッケイが南部の軍を率いた。この部隊は柵で防御を施された野営地に逃げ込んだ約200名のヤマシー族を見つけて攻撃した。比較的少数のカロライナ部隊が2回砦の壁に攻撃を掛けると、ヤマシー族は撤退を決めた。しかし一度砦の外に出るとヤマシー族はマッケイの約100名の部隊に奇襲攻撃を掛けられ殲滅された。 1715年夏に小さな戦闘が起こり、ドーファスキーの戦いと呼ばれた。カロライナのボートを使った斥候部隊が1群のヤマシー族を急襲し、35名を殺したのに対し自軍の損失は1名に留まった。 ヤマシー族は始めの数週間植民地の開拓村を主要な目標としていたが、イギリス人交易業者は南東部中で活動を続けており、自然と渦中に取り残されてほとんどの場合殺された。戦争が始まったとき、およそ100名の交易業者が活動していたが、始めの数週間で約90名が殺された。交易業者を殺したのは、クリーク族のオーチェス、タラプーザ、アベイカおよびアラバマ集団、アパラチー族、チカソー族、チョクトー族、カトーバ族、チェロキー族その他であった。 戦争の最初の1ヶ月間、サウスカロライナは北部にいるカトーバ族のようなインディアンの支援を期待していた。しかし北部からはカトーバ族やチェロキー族に入って行った交易業者が殺されたという知らせが入った。カトーバ族とチェロキー族は南部のインディアンほど早くに交易業者を攻撃した訳ではなかった。両種族はどのような態度をとるかで割れていた。しかし幾つかの出来事や噂によって北部での敵対心が大きくなった。バージニアの交易業者の中にはサウスカロライナでカトーバ族が戦争を始めるよう唆したとして後に告発される者がいた。カトーバ族がサウスカロライナの交易業者を殺すと決めたとき、バージニアの交易業者には危害を加えなかったことは注目すべきことである。 1715年5月までにカトーバ族はサウスカロライナに戦士の部隊を派遣した。約400名のカトーバ族戦士が70名のチェロキー族と結託して、サウスカロライナの北部を荒らし回った。6月、これに対抗して、トマス・バーカー大尉の指揮する約90名の騎兵隊が北部に向かった。カトーバ=チェロキー連合軍は前もってこの部隊の接近を知り、待ち伏せをして全部隊を蹴散らしてしまった。他のカトーバ=チェロキー連合部隊がベンジャミン・シェンキンのプランテーションにあった急拵えの砦を襲い、約20名を殺害した。この後では、サウスカロライナはチャールズタウンの直ぐ北、富裕なグース・クリーク地域の前には何の防衛体制も無い状態になった。 しかし、北部のカトーバ=チェロキー連合部隊がチャールズタウンそのものを攻撃する前に、チェロキー族の大部分が自分達の集落に起こった新しく重要な展開の知らせに隊を離れてしまった。残ったカトーバ族は、ジョージ・チキンの下に急遽集められた民兵隊と直面することになった。1715年6月13日、チキンの民兵隊はカトーバ族1部隊を急襲し、さらにポンヅの戦いとして知られるカトーバ族主力部隊との決戦を行った。その結果は大勝利だった。カトーバ族はゲリラ的な戦い方ならば得意であったが、会戦のような戦い方には慣れていなかった。カトーバ族は集落に戻った後で状況を分析し、停戦を決めた。7月15日までに、カトーバ族外交使節がバージニアに到着し不動産投資 と停戦するだけでなく、サウスカロライナ民兵隊に協力する用意があることを伝えた。 オーチェス・クリーク族はヤマシー族よりも戦争の扇動者として動いた可能性があった。戦争が始まると直ぐに領地内にいた交易業者を殺した、他のクリーク族、チョクトー族、チカソー族およびチェロキー族も従った。 オーチェス・クリーク族の領地とサウスカロライナの開拓地との間に、ユチ族、サバンナ川ショーニー族、アパラチー族およびアパラチコラ族といった少数の部族が住んでいた。1715年の夏、これら少数種族がサウスカロライナを攻撃して幾つかの成功を収めた。これらの攻撃にオーチェス・クリーク族も加わっていた可能性があるが、サウスカロライナの反撃が効果的であることが分かると、概して慎重な態度を採った。小さな種族はサバンナ川地域に逃げ、オーチェス・クリーク族を避難場所としたが、ここで戦争の次の段階の作戦を練った。アッパー・クリーク族はまだサウスカロライナに対する戦争への参加を決めていなかったが、オーチェス・クリーク族を強く尊敬しており、条件が整えば侵略に加わろうと考えていた。当面の問題は交易品であった。武器のようなサウスカロライナから得られるイギリス製品は、全てのクリーク族にとって必需品であった。CFD との戦争という事態になって、クリーク族はフランスやスペインを他の商品供給源として見るようになった。フランスとスペインは喜んでクリーク族に供給したいと考えたが、イギリスが供給していたと同じ程度の量や質を確保することが出来なかった。マスケット銃、火薬および銃弾は、クリーク族がサウスカロライナを侵略しようとすれば是非とも必要なものだった。アッパー・クリーク族は参戦を躊躇していた。それにも拘わらず、クリーク族はヤマシー戦争の間、フランスとスペインに密接な関係を築いていた。 オーチェス・クリーク族にはチカソー族およびチェロキー族と関係があった。しかし、チカソー族はイギリス人交易業者を殺した後で、サウスカロライナと直ぐに停戦していた。チカソー族はクリーク族の集落で交易業者を殺害したことを糾弾し、下手な言い訳ではあったが、サウスカロライナはこれを受け入れた。チェロキー族の位置付けが戦略的に重要となった。 チェロキー族も2つに割れていた。概してサウスカロライナと密接に暮らしていたローワー・チェロキー族が戦争を支持する傾向にあった。カトーバ族がサウスカロライナのサンティー川開拓地を襲った時に参加した者もいた。サウスカロライナからは離れて住んでいたオーバーヒル・チェロキー族はサウスカロライナとの同盟を支持しており、クリーク族との戦いにも参加する意向だった。サウスカロライナとの同盟に最も熱心なチェロキー族指導者の一人は、ミドル・チェロキー族集落の酋長シーザーであった。 1715年遅く、2人のサウスカロライナ交易業者が外貨預金 族を訪れ、多数のチェロキー族代表を連れてチャールズタウンに戻ってきた。同盟が結ばれ、クリーク族に対する作戦が練られた。しかし、翌月、チェロキー族は予定されていたサバンナタウンでのサウスカロライナとの会合に出て来られなかった。サウスカロライナは300名以上の遠征隊をチェロキー族集落に派遣し、12月に到着した。彼らは別れてローワー、ミドルおよびオーバーヒルの主要集落を見て歩き、チェロキー族が割れていることが直ぐに分かった。この冬の間、チェロキー族指導者のシーザーはチェロキー族集落を歩き回り、クリーク族に対する戦争の支援を説いて回った。同じ時期にチェロキー族の権威があり尊敬されている指導者達が注意と忍耐を促した。この中にはサウスカロライナから「魔術師」と呼ばれるチャリティ・ハゲイがいた。チャリティ・ハゲイはサウスカロライナに近いローワー・チェロキーの集落ツガルーの出身であった。ローワー・チェロキー族の多くがサウスカロライナとの停戦の用意があったが、ユチ族やサバンナ川ショーニー族以外の者と戦うことを躊躇していた。 サウスカロライナの人々は、ローワー・チェロキー族からクリーク族に「休戦の旗」が送られ、クリーク族の代表が来ることを約束したと告げられた。チャリティ・ハゲイとその支持者がクリーク族とサウスカロライナの間の和平交渉を斡旋しているように思われた。彼らはサウスカロライナに戦争の計画を変えるよう説得した。サウスカロライナはそうはせずに、冬の間にシーザーや戦争に賛成なチェロキー族を制止しようとしていた。 1716年1月27日、サウスカロライナの者がツガルーに集まって、先にクリーク族の代表が到着し、チェロキー族がその12名の代表のうち11名を殺害したことを知った。チェロキー族は、クリーク族が実際には数百のクリーク族とヤマシー族の戦闘部隊であり、サウスカロライナ軍に対する急襲に成功するところだったと主張した。ツガルーで何が起こったか不明のままだった。サウスカロライナの立ち会い無しにチェロキー族とクリーク族が私的に会ったことは、チェロキー族がまだ、クリーク族に付いてサウスカロライナと戦うか、サウスカロライナに付いてクリーク族と戦うか、意見が割れていることを暗示していた。イギリスとの交易では比較的新参であったチェロキー族はクリーク族に替わってサウスカロライナの主要な交易協力者になることを期待していた可能性がある。背後にあったものはどうあれ、ツガルーの虐殺はポコタリゴの虐殺のように予想外に熱した議論の中から手詰まりを殺人で解決しようとしたと思われる。ツガルーの虐殺以後は、チェロキー族とクリーク族の間に戦争の2文字しかなく、またチェロキー族とサウスカロライナ議会との同盟も自明の事実となった。 チェロキー族のサウスカロライナとの同盟は投資信託 族による大規模なサウスカロライナ侵略の可能性を奪った。同時に、サウスカロライナはクリーク族と平和的な関係を取り戻したいと願い、これ以上の戦争を望んでいなかった。サウスカロライナはチェロキー族に武器や交易品を供給する一方で、好戦的なチェロキー族が期待した軍事的支援は行わなかった。1716年と1717年にチェロキー族は勝利を挙げたが、クリーク族の反撃でクリーク族と戦おうというチェロキー族の意志を弱らせもした。元々チェロキー族の意志は割れていた。それにも拘わらず、クリーク族とチェロキー族は何世代も互いに小規模の戦いを繰り返してきていた。 ツガルーの虐殺とチェロキー族による攻撃に応えて、オーチェス・クリーク族は1716年早くに防衛的な戦略を採った。オクマルジー川盆地にあった集落全てをチャタフーチー川沿いに移動させた。オーチェス・クリーク族は元々チャタフーチー川沿いに住んでいて、1690年頃、サウスカロライナに接近するために、オクマルジー川とその支流オーチェス・クリーク(ここからクリーク族の名前が生まれた)沿いに集落を移した経緯があった。商品先物取引 にチャタフーチー川に戻ったことは撤退ではなく、以前の状態に戻ったことだった。チャタフーチー川とチャールズタウンの距離は、サウスカロライナからの攻撃から守ることでもあった。 1716年と1717年に、チェロキー族=イギリス同盟軍から大きな攻撃が無かったので、ローワー・クリーク族は自分達の力が上がったものと見なし、敵であるイギリス人、チェロキー族およびカトーバ族に対する襲撃を再開した。しかし、イギリスとの交易から切り離されて、弾薬や武器の補充に困難を極めるようになった。一方チェロキー族はイギリスの武器を十分に供給されていた。イギリスとの交易に対する誘惑はクリーク族の間の反英感情を弱らせていった。1717年早く、チャールズタウンから数名の施設がローワー・クリーク族の領地に行き、また数人のクリーク族がチャールズタウンに行って、暫定的に和平に導く過程を始めた。同時に他のローワー・クリーク族は戦いを続ける方法を探していた。1716年遅く、多くのマスコギ・クリーク族の代表がニューヨークのイロコイ連邦に旅していた。クリーク族の外交使節に心を動かされたイロコイ族は、20名の外交使節を帰途に就くクリーク族と共に送り出した。イロコイ族とクリーク族は、カトーバ族やチェロキー族といった互いの敵であるインディアン種族に対する攻撃に主要な関心があった。しかし、サウスカロライナにとっては、イロコイ族とクリーク族の間の同盟は、何をおいても避けるべきものであった。これに応えるためにサウスカロライナは1群の外交団を大きな荷車に積んだ交易品の贈り物と共にローワー・クリーク族の集落に送り込んだ。