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現提
ヤマシー族とカトーバ族が鉾を納めると、サウスカロライナ民兵隊は放棄されていた開拓地を確保し、前線の安全を確保するために、プランテーションの家屋の幾つかに防御を施して要塞化した。民兵隊は先制攻撃も行ったが、襲撃部隊から全植民地を守ることは不可能だった。民兵の中には1715年の夏に退去して脱走する者も現れた。自分達の家産や家族を気遣う者も居れば、単にサウスカロライナを共に離れるだけの者もいた。 民兵隊の失敗に対応してクレイブン知事は職業的軍隊(すなわち給与の出る兵士の軍隊)に置き換えた。1715年の8月までに、サウスカロライナの新軍には600名の市民と400名の黒人奴隷、170名の友好的インディアン、およびノースカロライナとバージニアから300名の兵士が参加した。サウスカロライナにとって民兵を解体し、職業的軍隊を作ったのは初めてのことであった。戦争遂行のために多くの黒人奴隷を武装させたのも注目すべきことであった。奴隷についてはその主人に給与が支払われた。 この軍隊でも植民地の安全確保には不十分であった。敵対的なインディアンは単に会戦を拒むだけでなく、予想できない襲撃や急襲という戦い方を選んだ。さらにインディアンは大きな領土を占領していたので、軍隊を差し向けても効果のないことが多かった。1716年にチェロキー族との同盟が成立すると軍隊も解体された この戦争には、多くのインディアン種族がその関わり方も様々に変化しながら関わったので、はっきりした終戦というものがない。ある見方では主要な危機は1,2ヶ月の間に終わったという。カロライナ植民地領主は決定的な危機は最初の数週間だったと信じていた。戦争を終わらせたのは1716年初めのチェロキー族との同盟締結時点だったと言うものもいる。1717年遅くにクリーク族やその他のマスコギ語族と平和条約が結ばれた。しかし、ある種族は和平に同意せず、武装を続けた。ヤマシー族とアパラチコラ族は南部に移住したが1720年代になってもサウスカロライナの開拓地を襲うことを止めなかった。辺境の安全確保が課題として残された。 ヤマシー戦争は、その後数年掛かって植民地領主を放擲することになった。1720年代に領主の植民地から の植民地(イギリスが国として経営する植民地)への移行が進められた。これには9年間を要したが、1729年、サウスカロライナとノースカロライナは公式に王室の植民地となった。サウスカロライナはヤマシー戦争の前から領主の植民地経営に不満を持っていたが、1715年の戦争の初めの段階で一度その転換要求が萎み、その後にまた大きくなっていた。[6] ヤマシー戦争はジョージアの植民地設立にも影響した。ジョージア植民地設立には他の要因もあるが、ヤマシー族の撤退なくしてそれは有り得なかった。ヤマシー族の少数ながら残存した者がジョージアでヤマクロー族となった。ジェイムズ・オグルソープはジョージアの首都としてサバンナを建設する場所を得るためにヤマクロー族と交渉した。[7] 戦争の初めの1年間で、ヤマシー族は殺されたり奴隷にされたりして、その人口の約4分の1を失った。残った者は、17世紀に本拠地としていた南のアルタマハ川へ移動した。しかし、そこでも安全とは言えず、間もなく逃亡を始めた。ヤマシー族は種族として常に多民族の混交であり、戦争後は幾つかの派に分かれていった。残った者の3分の1はローワー・クリーク族の所に定住することを選び、結果的にクリーク族同盟の一部となった。残りの大半はアパラチコラ族の避難民と合流し、1715年夏にフロリダのセントオーガスティンの近くに移住した。サウスカロライナとヤマシー族 に和平の試みが何度か行われたが、紛争状態はその後何十年も続いた。スペイン領フロリダのヤマシー族はその内に病気や他の原因で勢力を弱めた。残った者はセミノール・インディアンの一部となった。 ヤマシー戦争後は、様々な原始クリーク族、マスコギ語族が結びつきを強めた。オーチェス・クリーク族がアパラチコラ族、アパラチー族、ヤマシー族やその他の残存勢力と一緒になって、チャタフーチー川の辺りを再占領した。これはヨーロッパ人にとっては、新しいインディアンの特定を必要とし、また新しい名称も必要となった。スペイン人にとっては、それは17世紀の「アパラチコラ植民地」の再生であった。イギリス人には、ローワー・クリークという呼び方が一般になった。 カトーバ族は北部のいわゆるピードモント諸族の残党を多く吸収した。チェロー族、コンガリー族、サンティー族、ピーディ族、ワックスホー族、ウォーターリー族、ワッカモー族、およびウィニャー族などである。これら種族はその後も比較的独立した形に留まってはいた。タスカローラ族が北のイロコイ族に加わることで去った後は、ヤマシー戦争の中から生まれたカトーバ同盟がピードモント地区で最も強力なインディアンとなった。1716年、カトーバ族がサウスカロライナと和平を結んだ1年後、サンティー族やワックスホー族が数名の開拓者を殺した。サウスカロライナ政府はカトーバ族に、「彼らを襲って撲滅する」ことを求め、カトーバ族は実行した。生き残ったサンティー族とワックスホー族の者は奴隷にされるか「養子」にされるかで、カトーバ族に吸収された。チェロー族はその後も敵対的な姿勢を続けた。 当時、アメリカ連邦政府において、先住民に対して宥和的政策をとるグラント大統領に対し、先住民に不信感を持つ反グラント派が対立していた。 1874年、ミズーリ軍管区司令官フィル・シェリダンは南北戦争で活躍した部下のジョージ・アームストロング・カスターに命じて先住民の聖地への遠征を行った。協定に違反した連邦政府に先住民側は不信感を強めることとなった。 1876年、陸軍相シャーマンは先住民掃討軍を編成。カスターは第7騎兵隊(英語)の連隊長として参加を許される。作戦はモンタナ州南東部のスー族の本拠をギボン隊、クルック隊、テリー隊で三方から包囲するものであった。同年6月、クルック隊はクレイジー・ホースの部隊と戦闘を行った後に後退。カスターの属するテリー隊はリトルビックホーン川をさかのぼり、6月25日早朝に、宗教行事のために河沿いに集結していた先住民諸部族1500名の野営地を発見した。テリー、ギボン隊は挟撃を目論み、26日に総攻撃を予定してカスター隊を川上に派遣。このとき先住民側は、ラコタ族、シャイアン族、アラパホ族の連合軍で、ゴール、クレイジー・ホース、ツー・ムーンズらの酋長に率いられていた。 6月25日、カスターは資産運用 を渡河させて威力偵察を行い、リーノウ隊が先住民部隊と戦っている間に独断で総攻撃を命じる。リーノウ隊を撃退した先住民部隊はカスターの本隊へ反撃、カスターは戦死、直属の225名も全員戦死した。 カスター配下の「第七騎兵隊」は、構成員が東欧などからのいわゆる「遅れてやってきた移民」たちだった[要出典]。戦いの間際には平原をひたすら行進する部隊活動に疲れきっていて、士気はかなり低下していた[要出典]。また「第七騎兵隊」は一人につき124発しか装備していなかった[要出典]。 対する先住民側は、戦場に残された個人向け国債 の数から考えて(カスター隊は45口径の単一のカートリッジを使用していたので、それ以外の弾丸や薬莢は全て先住民部隊のものと判断出来る)カスター隊の4倍もの銃を装備していた。その種類は極めて多彩で、上記の調査からも47種類以上の銃が使用されていたと考えられている[1]。またカスター隊が単発式のスプリングフィールドM1873を使用していたのに対し、先住民部隊は威力や射程距離、命中精度では劣るものの連射速度で遙かに勝るヘンリー式連射銃(ウィンチェスターライフルの原型)や戦斧を使用しての接近戦を挑み、カスター隊の唯一の長所を帳消しとした[2]。 その結果、戦闘は始まると同時に一方的な展開となり、カスター隊はipo と経たないうちに追い詰められて虐殺されることとなった。 現在、戦場跡には記念碑が建てられ、リトルビッグホーン国定記念公園になっている。 この一方的な戦況は虐殺として伝えられた。夫を神格化しようとするエリザベス・“リビー”・カスター夫人の熱心な活動もあって、アメリカ社会では反先住民の世論が高まり、先住民に対する武力掃討が行われた。有名なものがウーンデッド・ニーの虐殺である。 またカスターの副官であったマーカス・リノは、この敗戦の責任を負わされることとなった。 しばしば先住民側による奇襲と語られるが、実際は、奇襲したのはカスターのほうである[要出典]。 シッティング・ブル(彼は戦いそのものには参加していない)はこれに先駆け、単独でサンダンス(太陽の踊り)の儀式を行い、「青い服を着た白人達(青い制服を着た第7騎兵隊)が、天から真っ逆さまに落ちていく」幻視を得たとされる[要出典]。 カスター隊は、多数の先住民斥候を投入した。ほとんどが、スー族と長年にわたって敵対していたクロウ族、アリカラ族、ポーニー族たちだった[要出典]。