- コール・ローン
- 農民(ヨーマン)は次第に裕福になってジェントリになってゆく者と、より貧しくなって離農する者へ二極化した。エリザベス1世は救貧法などによって社会的安定を保とうとしたものの、貧農が都市、なかんずくロンドンに集中して急激な人口増加をもたらした。この変化に宗教改革や修道院の解散も影響して、貧しい人々をみる視線が「慈善の対象」から「怠惰の結果」に変わっていった。こうして社会的・経済的に追いつめられた人々が急進的な思想を醸成していった。 ヨーマンや小作農のなかから、しだいに広い土地を持つものが出てきて、かれらはジェントリ化していった。これには、封建領主制からブルジョワ的土地経営に様変わりしたことが原因としてあげられる。すなわち、農民は階級的支配による耕作ではなく、商契約に基づく労働としての耕作という方向に徐々に変貌してゆく。そのなかで余裕をもてた者が、農業生産性の向上もあって、その所有する土地を漸次広げていった。そしてジェントリの一角に食い込んでいったばかりでなく、富農の発言力も強まってきていた。 当時、国家財政は急激に悪化していた。収入面では余剰生産が寄生地主・富農の手にとどまって国家まで上がってこなかったこと、支出面では価格革命による物価の上昇および戦費がかさんだことがそれぞれ原因だった。代々の王は王領地を売却することで当座をしのいできたが、すでに王領地はヘンリー8世時代の半分以下にまで目減りしていた(註)。結果として王室は議会の承認する税収への依存を強める一方で、中世以来の国王大権に基づいた徴発権・後見権・関税の徴収強化に乗り出して王権に基づいた財政基盤強化にも乗り出していた。これが農民のみならず、貴族や商人階層の不満をも高める結果となった。 特にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド国王(ジェームズ1世)に迎えられてステュアート朝が始まると、財政の膨張に拍車がかかる様になり、国王からの議会に対する予算の要求が増加していった。これを危惧する廷臣グループから1610年に「大契約」と呼ばれる仲裁案が国王と議会に出されたものの結局は失敗に終わり、それ以後も財政悪化が益々深刻化する中でチャールズが王位を継ぐ事になったのである。 こうした情勢にも、チャールズは外為 神授説を捨てず、議会に対して予算を要求するのみだった。一方で議員たちにとっての議会とは、地元の陳情を処理する場であった。両者の関係はしだいに離れてゆき、1628年6月「権利請願」提出を経て1629年、議会は解散を命じられた。 *註:エリザベス1世治世期で82万ポンド、ジェームズ1世は77万ポンド、チャールズ1世は65万ポンドの領地を売りに出して当座をしのいだ。革命中に政府が売却した残りの王領地は200万ポンド未満であったといわれるから、3人の王をあわせて半分以上となる。 チャールズ1世は親政を始めた。この親政時代(1629年 - 1640年)は"Eleven-years' Tyranny"(専制の11年間)とよばれる。親政では倹約と教会の監督制強化、新規課税による財政再建がおもな課題となった。財政再建においてはトン税・ポンド税・船舶税の徴収強化をはかったが、議会の承認を経ない税ゆえに反発を招いた(註)。チャールズはジョン・ハムデンら反発した者を星室庁で裁き、投獄・耳そぎの刑に処した。教会の監督制強化の面ではスコットランドへの外為 が行われたが、スコットランド国民盟約の反発を招き主教戦争をおこした。戦争の結果、賠償金を支払うこととなり、資金が払底したチャールズは再度議会を開かざるをえなかった。 *註 船舶税の徴収を確実なものとするために、徴税にあたっている州長官 (Sheriff) に歩合制報酬と、徴税を監視する没収官の派遣を導入した。無給の名誉職であった州長官にとって屈辱的なこの改革はかえって反発を招き、税収は予定額の2割に落ち込んだ。 [編集] 短期議会と長期議会 かくして議会が召集されたのは1640年4月だったが、行き違いはむしろ深刻になっており、議会は3週間たらずで解散された。これが「短期議会」といわれるものである。しかし主教戦争を遂行するためにも予算が必要であり、予算を得るためには議会の開催が必要だった。こうしてやむなく再度議会を召集し、「長期議会」が同年11月に開会された。議会は国王とその側近、および国教会ヒエラルキー(特にアルミニウス主義)に対する攻撃を強調した。一方で治安が急速に悪化し、アイルランドでカトリック同盟による内戦が起こった。現地プロテスタント虐殺の報に沸騰したロンドンでは国教会に対する不満が噴出していた。1641年5月には国王派で議会内の反対派鎮圧を画策していたストラフォード伯爵トマス・ウェントワース(元は議会派であったが、親政期に国王側に離反して閣僚となっていた)が議会によって人身保護の権利を剥奪されて処刑されている。 事態を決定的にしたのは外交などくりっく365 大権を制限して議会主権を主張する「大抗議文」が可決されたことだった(1641年11月)。この抗議文は急進性を有しており、すべての議員に支持されてはおらず、可決したものの票差は159対148とわずか11であった。この抗議文への姿勢の違いから議会は国王派と議会派に分裂した。続いて12月に議会が民兵条例を可決すると、国王側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難した。こうした状況を受けて国王は1642年1月に議会派の中心人物の逮捕を命じ、これを見たロンドン市民は議会派についた。身の危険を感じて王がロンドンを離れると、国王派と議会派に分かれてイングランド全土を巻き込む内戦が始まった。 この時期、民衆はピューリタンらの発行したパンフレットを通じて一連の政治問題に強い関心を示し、請願や暴動などが起きて民衆の政治活動が活発に起きはじめていた。この中から後述する平等派(レヴェラーズ)がつくられていき、長老派との抗争において独立派を支持した。 三十年戦争とそれによる疲弊は、フランスなど大陸諸国が介入する余力を残さなかった。これによって清教徒革命は、大陸に波及することがなく、また名誉革命やフランス革命と違って、海外の干渉をほとんど受けずに進展した。 ここでは、清教徒革命においてみられたワラント な党派について説明する。イングランドにおいては、各党派は階級や地方による分類が難しく、どの党派に属するかは血縁などの個人的関係が大きく影響していたといわれる。 議会にいたものの、大抗議文の趣旨に賛同せず国王側についた議員とその領袖をさす。国王派といっても議会との妥協をはかる者から徹底抗戦を主張する者まで、見解には振幅があった。産業化がすすんでおらず、ピューリタニズムの浸透が浅いイングランド北部・西部及びウェールズ・コーンウォールにおいて有力であり、1644年のニューモデル軍結成までは有利に戦局を展開させていた。ほぼ国教会信徒によって構成された。 大抗議文の作成を主導したか、賛同して国王軍と戦った議員が議会派であるが、主張の濃淡は多様であった。イングランド東南部で支持された。多くは国教会改革を唱え、求める改革の方向は宗派によってまちまちであった。以下のほか、浸礼派(バプテスト)やクエーカーが入り乱れ、百家争鳴の様相を呈した。 長老派 中央権力を弱めた長老制教会をめざした一派であり、不動産投資 と和解に積極的姿勢を示した穏健派である。同じ長老制教会をとるスコットランドと友好関係を保った。議会多数派であったが、チャールズと妥協を図って独立派と対立し、「プライドのパージ」によって議会から追われた。中産階級以上が多かったといわれ、追放後はランプ議会に対してパンフレットによる言論攻勢をかけた。 独立派 分離派の一派で、カルヴァン主義独立派(インディペンデント)に属する。ほかの分離派と長老派の中庸をめざした党派で、革命を積極的に推進した議会内勢力である。宗教面の主張よりも政治的利害の一致によって結びついた。クロムウェルなど将校に多く、内戦においては主戦派であった。平等派や軍と共同歩調をとって長老派を追い落とし、ランプ議会で議会を掌握した。独立派の多くが国王の処刑に署名し、王政復古後逮捕・処刑された。 平等派 分離派のひとつ。もと独立派左翼で兵士やロンドンの一般市民からなり、平等な政治体制の実現をもとめて社会契約や普通選挙導入を主張した。「レヴェラーズ」「水平派」と呼ばれ、教義より政治的主張を重視した。リルバーンら論客のパンフレットにより盛り上がりを見せ、革命の徹底を主張した。当初は独立派と近かったものの、共和政以降対立し、1650年から弾圧に遭って衰退した。