- ゴールデンクロス
- 分離派のひとつ。アッシリア・ペルシア・ギリシア・ローマに続く第5のキリスト教千年王国を実現せんとした急進派である。一般市民や兵士および一部将校からなる。聖者による統治をめざし、共和政やクロムウェルを支持したが、護国卿制になってからは反体制側にまわって暴動を起こすなどテロリスト化していった。王政復古後弾圧に遭い勢力は衰え、その一部は北米植民地(のちの合衆国、カナダ)に移住した。 真正水平派 分離派の一つ。「ディッガーズ」と呼ばれる。指導者はウィンスタンリーで原始キリスト教的社会主義思想に基づく土地共有を推進した。貧農に支持者が多く、サリー州で1649年共有地を開拓した。議会派きっての穏健派でもっとも民衆のことを考えていた。ウィンスタンリー自身も平和的に説得して支持者を増やした。のちに独立派によって弾圧され衰退した。初期のユートピア社会主義と見る向きもある。 便宜上中立派とよばれるが、まとまりのある党派ではなく、各党派をむすびつけて和解に至ろうとした個人を総称していう。その活動範囲は多様であり、精力的であったが、革命期において存在感を示すことはあまりなかった。 スコットランドの勢力で、国民盟約に加わった者からなる。国教会の中央集権的教会制度をきらって長老制にもとづく。信仰面ではイングランド長老派とほぼ同じである。のち、スコットランドの完全支配をめざした強硬派と、あくまで王のもとでの長老制を支持した穏健派に分かれて抗争が起こった。 アイルランドの勢力。ゲール人・イングランド人ともに、官職から疎外されてきたカトリックが団結して作った。国王との和解およびカトリック信仰の承認を求めた。信仰面から、イングランド議会派や盟約派と対立した。大陸のスペインなど対抗宗教改革勢力の支援も受けていたといわれる。 内戦勢力図。黄色は議会派、赤は王党派。 左上:1642年、右上:1643年、左下:1644年、右下:1645年。 1642年からイングランドで議会軍と国王軍の内戦が始まった。当初は実戦経験や質でまさる国王軍が有利に戦ったが、ニューモデル軍をはじめとする軍制改革が行われて議会軍が強化されると、議会軍が優勢になった。当初騎兵隊の隊長にすぎなかったオリヴァー・クロムウェルは議会軍のなかでしだいに頭角をあらわしてゆき、ニューモデル軍結成にあたってはその副司令官となった。議会軍はネイズビーの戦いで勝利を決定づけ、急進的になった民衆や議会のもと、国王チャールズ1世は処刑された。 そのなかで、議会は革命の先物取引 役となった軍に警戒を強めつつあった。軍はバプテストや独立派などが多く信条面で急進的であり、議会は長老派が一定数を占めていたため穏健であった。特にクロムウェルなど軍指揮官の名声はいや増す一方であり、議会としては革命の主導権を奪われかねない状況にあった。議会と軍の関係はしだいに疎遠になってゆき、議会が財政難を理由に軍隊の削減を主張するにおよんで、軍は反撃に出た。プライドのパージがそれであり、軍が長老派議員たちを議会から追放した。このパージ以降、軍の意を色濃く反映した議会運営がすすめられてゆくことになる。国王の処刑や対アイルランド・スコットランド戦争も、そうした文脈の中で起こった。 清教徒革命の勢力図(1649年?1660年) [編集] 共和政イングランド 共和政宣言をもって成立した共和政イングランド(1649年-1653年)はさまざまな内部対立を抱えていたが、これを維持しえたのは、軍人として名望が高まりつつあったクロムウェルの軍功と、三十年戦争で諸外国が消耗していたからだった。先物取引 はまた、財政立て直しのために王・国王派の領地を没収/売却したが事足りず、軍縮に手を付けざるを得なかった。これによって軍との対立を招き、護国卿政治にとって代わられることとなった。 ダンバーの戦い [編集] 反革命勢力の排除 共和政イングランドにおいては独立派がランプ議会を主導し、保守派(長老派)と革命の徹底を求める平等派の追い落としを始めた。追放された長老派はスコットランドにその活路を求め、オランダに亡命していたチャールズ2世を迎え入れた。平等派は徹底的な弾圧を加えられ、その勢力はなお健在ではあったが、組織化されることはなくなり、独立派の単独政権が確立された。アイルランドのカトリック同盟をすみやかに鎮圧し、チャールズ2世を擁するスコットランドとの間に1650年7月戦端を開いた。9月3日のダンバーの戦いでスコットランド軍は決定的敗北を喫し、さらにイングランドに潜入したチャールズ2世はちょうど1年後の1651年9月3日ウースターの戦いで完膚なきまでに叩きのめされた。一連の戦闘を指揮していたのはクロムウェルであり、この華々しい戦果に圧倒的な名声を得た。また共和政イングランドは、これらの勝利によっていちおうの安定を得た。 反乱の鎮圧には膨大な戦費がかさんでおり、ひと段落したところで議会は財政立て直しのために軍の削減を主張した。さらに議会は航海条例を通過させ、オランダと険悪な関係になった。革命の担い手と自負していた軍は議会に対する態度を硬直させ、軍隊内では議会の解散をもとめる声が大きくなっていった。軍隊の立場を代弁・代表していたのはトマス・ハリソンであった。彼をはじめとする軍隊内の「第五王国派」は、神の王国の実現は近いとし、革命を導いたニューモデル軍こそその担い手であると主張していた。両者の対立を軟着陸させようと考えていたクロムウェルも、こうした軍隊内の過激化を抑えきれず、ついにハリソンと同調して議会の解散を強行し、「聖者議会」を成立させた。 「指名議会」「ベアホーンズ議会」「日経225 」「いやしい身分の狂信者たちの集まり」などとよばれたこの議会は、ランプ議会にかわって1653年7月2日に開会した。この議会で中心的役割を果たしたのが急進派(第五王国派)ハリソンと穏健派ジョン・ランパードであり、クロムウェルは両派から英雄として担ぎ上げられていた。穏健派は議会の解散とクロムウェルの国王就任を目論み、その思惑通りに事態が進展した。こうして聖者議会は4ヶ月で自主解散した。クロムウェルはこの構想に同意したわけではなかった。しかし議会がなくなってしまった以上、政権を引き受けざるを得ず、King ではなく Lord Protector(護国卿)として渋々政権の座についた。 1653年12月16日に成立し、元首である護国卿 (Lord Protector)、内閣にあたる国務会議、そして議会の三者均衡をめざしていた護国卿体制は、独裁制とは性格を異にしていた。護国卿の権力は「統治章典」によって制限され、立法権は州選出の議員によって運営される議会に留保された。しかしこの制度はすぐに破綻をきたし、反乱分子を抑えるために強権的にならざるを得なかった。 クロムウェルは独裁者たることを望んでおらず、FX 初心者 による国政運営を目指していたといわれるが、国王派から平等派・第五王国派まで包含していたイングランド内にあって合意などもとより不可能な状況にあった。反革命勢力は議会に選出され、政府の支配の道具として使われた軍隊の削減を求めた。革命勢力たる軍と保守化する議会の間に「合意」を引き出せるはずもなく、クロムウェルはどちらにつくか逡巡したのち議会の解散(1655年1月22日)を選択せざるをえなかった。各地で平等派や国王派の反乱が相次いでおり、軍縮できる状況になかったためである。また、これら反乱分子を抑えるため、独裁的行政手段に訴えなければならなくなってきていた。 こうして解散された議会だったが、財政の逼迫はクロムウェルに変節をよぎなくさせた。「議会の同意なき課税は無効」という伝統がすでにイングランドに成立しており、これに基づいて議会を再召集する以外になかった。1656年9月17日に開かれた2度目の議会は、議員資格をめぐって混乱があったもののどうにか開かれた。議会は保守化の傾向を促進させようとし、クロムウェルに王の称号を贈り、上院の復活を求めるなどステュアート朝時代の政治体制に戻そうと腐心した。クロムウェルは王の称号以外の部分はおおむね受諾した(1657年5月25日)が、これが王政復古への道を決定づけたとも指摘されている。 軍の弱体化を狙う政府内の動きに、第五王国派や平等派、そして兵士たちは反感を募らせていき、請願や抗議行動を活発化させていった。自らの支持基盤が軍であることを知っていたクロムウェルは、こうした動きにやむなく1658年2月4日議会を解散し、軍から忠誠をとりつけた。しかし議会を解散したことによって、いままでの反乱分子だけでなく独立派なども反対勢力にまわり、軍以外に支持基盤を見出せない状況に追い込まれていた。そんな中クロムウェルがインフルエンザにかかり、1658年の彼が名声を得た日と同じ9月3日世を去った。 あとを継いだリチャード・クロムウェルは無能ではなかったといわれるが、またも財政問題から議会を開かざるを得ない状況に追い込まれていた。また、オリヴァー・クロムウェルという核を失って、再度ひらかれた議会と軍の対立はもはや覆いがたくなった。選挙資格や選挙区の区割りを元に戻して行われた選挙から選ばれた議会には長老派と党派抗争をも復活させた。そしてクーデターによる議会の解散、ランプ議会の復活という変遷をへて、限界を悟ったリチャードは引退を決意した。オリヴァー・クロムウェルを失ったことは軍隊をも四分五裂させたが、そこにスコットランド軍の侵攻が重なった。 チャールズ2世はこの好機を逃さず、1660年4月4日ブレダ宣言註を発して復位を促した。混乱と内紛にうんざりしていた議員や国民の圧倒多数によってこれは支持され、5月7日、宣言を受諾する使節がオランダに向けて出航していった。 註「ブレダ宣言」は以下の4項目からなり、チャールズ2世の寛容さを印象づけた。(1)革命中の行動は、議会の指名したものを除き大赦を与える。(2)宗教上の意見の相違は、議会の定めにより寛容を認める。(3)軍隊の給与は、議会に決定に従ってすみやかに支払う。(4)革命中の土地所有権の移動は、議会によって処理する。 1639年の盟約戦争・主教戦争から1651年のクロムウェルによる征圧までの内戦はスコットランド革命とよばれる。イングランドにおける急進勢力が独立派やバプテストであったのに対し、スコットランドでは長老派の中で強硬派(アーガイル侯・リーヴン伯)と穏健派(モントローズ侯など)に分かれ、強硬派は王に対する徹底抗戦とスコットランドの実効支配を目指した。いっぽう穏健派は、盟約の目的は長老制の確立のみであり、スコットランドは国王のもとに帰するべきと考えた。この違いが、内戦のみならず対イングランド外交にも影響し、強硬派の勝利・実権掌握がイングランドとの対立を招いた一因となった。これに続くクロムウェルの遠征によって、スコットランドは史上初めて直接支配を受けることになった。 スコットランドは山岳地帯や大小の島々が多く、中央集権に向かない地域であった。地方ごとに有力貴族・氏族がそれぞれの領地をおさめ、王がそれを束ねる分権的な封建制にも似た国制をとっていた。そうした地方における宗教は、平信徒の代表である長老が合議によって教会自治を行う長老制が優勢となっていた。 1637年、チャールズ1世は国教会祈祷書(儀式などの手順を指定した書)を施行した。国教会は監督制すなわち国王を頂点とするヒエラルキー構造に基づく主教制的な要素が強いものであり、したがってスコットランドの激しい反発を招いた。スコットランドの有力貴族らは反乱を起こし、モントローズ侯らは1638年2月「国民盟約」を成立させて長老主義のもと団結した。